
「糸取りの里」お蚕様から良質な繭
大音は知る人ぞ知る「糸取りの里」です。かつては、大音近郊の集落を中心に湖北地方だけで全国の邦楽器糸の9割以上のシェアがありましたが、製糸工場の廃業や、糸取り作業に携わる女性の高齢化などで、村にたくさんあった糸取り工房も今は「佃平七糸取り工房」の佃三恵子さんたち一軒のみになってしまいました。 佃さんは、1991年、国の選定保存技術保持者に認定され、昔ながらの製糸技術の伝承活動を続けてきましたが、近年では繭の仕入先である養蚕業者も高齢化で廃業が相次ぎ、繭自体が不足しがちな状況が出てきました。 そこで2014年、大音の有志の住民らが、桑の木1500本の栽培を開始。孵化した蚕約1万匹を買い付け、地元の人たちの手で繭になるまで育てる取り組みが始まりました。 5月末、今年も大音に約1万匹の蚕がやってきてくれました。繭になるまで約ひと月、当番の人が交代でお世話をします。大食漢の蚕は1日3回、多い日には70キロを超える桑の葉を食べます。変温動物の彼らが食欲を失わずに大きくなってもらえるよう、小屋は常に25度から±3度くらいになるように窓を開け締めして調整します。

移り変わる村の暮らし 学んでつなぐ
奥琵琶湖の最北端、長浜市西浅井町菅浦で開かれた村歩きに参加しました。案内役は、専業漁師の長澤康博さんと、料理旅館のご主人岩佐達己さん。二人は1951年生まれの同級生。かつて船しか交通手段がなく「陸の孤島」と呼ばれた時代から、道路開通や琵琶湖の埋め立てなど、時代ともに変わる古里の景色を見てきました。 印象に残ったのは、かつての暮らしの跡。遠くの田から船で運んできた稲を干したという稲場跡や、湖から生活用水をくみ上げるために使ったという小さな桟橋。浜の船溜まり跡で岩佐さんが「いつも村人の船で混み合っていた」と語ると、長澤さんが「漁師は誰より早く湖に出られるように沖に錨を入れて停めていた」と思い出します。村人が協働で作業したというみかん畑や、昆布巻きの作業場跡、今も稼働するヤンマーの家内工場など、時代ごとに生業を変え、たくましく生きてきた村人たちの光景が、話を聞く私の目にも浮かぶようでした。 今回の企画をしてくれた長澤さんの長女の由香里さんは「菅浦に関心を寄せてくれる人と地元の人が出会うことで、お互いの暮らしている場所を大切に思い合うことができれば」と語